ブロック塀がレフ板のように明るい
この建物には、シーンがいくつも用意されている。それは、じんわりとした影をつくることと、そのグラデーショナルな影を砕いていくような操作を往復させることで生まれている。
南西に対して背を向けて建物を配置し、背の高いブロック塀を北東にぐるっと回し、光を受けとめる。これで、空間の奥のほうがぼんやりと明るいという状態が出来上がる。その影は、だらんとした垂れ壁と、天井の濃い塗装、といった要素で補強され、演出され、ほとんど完成する。
ほとんど完成したかに見えた柔らかいグラデーションは、もう少しくっきりとした操作によって、バラバラと砕かれる。例えば、リビングからの眺めは、外構材の切れ変わりが斜めに走ることで、少しだけ方向性が変えられる。
三角形状に設けられた階段・吹抜から落ちる光や、そこで錯乱される動線や視線もまた、前述の柔らかい影とは性質が違う。
三角の吹抜では、子供部屋、親の寝室、それから街の風景が接している。ここで、南西に背を向けた一番初めの操作が、通りに対して微妙に角度のふった視線を用意していたのだ、ということが分かる。本来は建物のアプローチで簡単に説明されるようなこと、つまり街と建物の関係性が、ここまで来てようやく一つの折り合いを見せる。
初めに、「じんわりとした影をつくることと、そのグラデーショナルな影を砕いていくような操作を往復させる」と書いた。それは、二項対立を書きたかったわけでもないし、もっと複雑だったであろう設計プロセスを単純化したいということでもなかった。
書きたかったのは、極端にいえば、この操作の往復によってブロック塀がますます明るく見えるようなことだった。性質の異なる操作や態度が、小さな敷地の中で密接に関連しあっている。それぞれの態度はなるべく鮮やかに表現されるが、それはあくまでも相対的な意味での鮮やさであって、関係が破綻しないぎりぎりのラインに留められている(だから、「ブロック塀を白く塗る」というようなことは起きない)。この関係性の均衡が、一種の強さと厚みを生む。それは、1つの操作、あるいは1つのコンセプトからは出てこない強度だと思う。
それで、このコンクリートブロックの塀が今の明るさを得ているのだと思う。