いつまでも読み終われないのではないかという本がある。一つは、カポーティの『遠い声 遠い部屋』。数十ページも読めずに、なにやら眩しすぎてページをすぐ閉じてしまった。「眩しい」という感覚がどういうものかというと、その時の自分のメモにこうある。「眩しさ:重たいもの、変わらないものが、何のもったいぶった前触れなく登場し、短い言葉で書ききられていく」。
このような本はもうないだろうと思っていたら、最近またあった。漱石の『三四郎』も、ところどころ、同じように眩しい。
もちろん内容からして、上京して新しいものに驚いている主人公の話なのだから、眩しいに違いない。ことの重大さもわからないままに、とにかく網膜に焼き付けようとする。それは特に、物語の焦点が定まってしまう手前、本の前半で顕著だ。
平易な三人称の文章だけれど、主人公の間に距離がない。むしろ、一人称よりも入り込めるようなところがある。文は平易なのに、ふいに突然、読者の網膜に、三四郎の見ている目まぐるしい光景がそのまま映される。
「裏の窓も開ける。窓には竹の格子が付いている。家主の庭が見える。鶏を飼っている。」
漱石は自身の記憶を書き連ねているのではないか、とも思う。それでいうと、カポーティの『遠い声 遠い部屋』も半自伝である。記憶の中で、視点は揺れ動くものなのかもしれない。俯瞰した視点でぼんやりと思い出しているときもあるし、急に鮮明な映像が眼前に現れるときもある。ここまでの眩しさは小手先ではできないはず、と思いたい。