美術館なのに直射日光が入り、明るい
丸柱、その基壇、四角いフレーム、筋交い、
いろんな要素が、それぞれ、それらしい位置に納まっている。
「意図」「コンセプト」といったような言葉は似合わない気がして、それでも腑に落ちる感覚がどこかにあって、「それらしい」というぐらいにしか言えなかった。
スケール感もこじんまりしていてとてもよかった。
それから、近くに最近できたリヒターラウムにいった。屋外に「ストライプ」がおかれている。
ここでも、窓から外が見え自然光が入ってくる。
レセプションにもオフィスにも、リヒターの絵画が飾られていて、展示室とおなじ空気感がそのまま続く。
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原が説明するときの語りとは違うだろうけど、田崎美術館を歩いているときの感覚は、山歩きにも近いと思った。
A 建物の一部分しか見ていなくても、建物全体の気配や空気感は分ること。(空間が均質だったり、すべてが見通せるわけでもない。)
B さっきまで自分が居た場所を、別の視点からながめて不思議な気持ちになること。
Aについて
この空間は見通せない。細かいピッチで落ちる柱によって、また、中央部におかれたボリュームによって、視界は常にさえぎられる。その中に、いろいろな場所が点在する。光が刻一刻と移り変わる展示室もあれば、低く抑えられた開口で中庭からぼんやりと照らされている展示室もある。
空間の要素は丁寧に砕かれ、混ぜ合わされている。建物の内部と外部という関係も、ぎざぎざの開口や、中庭、半屋外のアルコーブといったモチーフでゆっくりと嚙み砕かれている。あるいは身廊と側廊という関係も同じように丁寧に崩される。
この丁寧で複雑な手つきによって、見えない空間への予感が仄めかされる。山の例えでいうと、「尾根の裏側は見えないが、きっと同じように土砂崩れの跡があり、小さな扇状地くらいはあるだろう」といった類のぼんやりとした予感である。
Bについて
京都駅には「谷」が、ここには「山」が、ある。狭く急な階段を上って、展示室を見下ろす。「思っていたより展示室が小さい」、「下で見るより梁の存在感が強い」、等々、同じ空間でも見る位置で印象が異なる。長野のこのあたりをドライブしていると、谷の向こう側から見た時にはでは想像できなかったようなゴツゴツとした岩肌に驚いたり、自分の家があるエリアを見下ろしたとき緩やかで大きな扇状地の一角として納得できたり、そういうハッとさせられる小さな体験がある。起伏の激しい地形は、分かったつもりでも把握し切れず、無意識下にいつも小さな驚きがある。
「Aについて」の中で、ぼんやりとした予感ということを書いたが、そうした無意識下の想像と、実際の光景の間のズレというのが、絶妙な具合で設けられていて、心地良い。やっぱり、山歩きに近い。