カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』の構図、カット割り、演技、どれも鮮やかで迫力があるが、その一つ一つから意味を汲み取ろうとすると、途端に突き放されたような感覚になる。
けれど、数日経ち、鮮烈な印象が少し薄れた頃になると、今度は問題提起がはっきりと浮かび上がってくる気がした。
この映画は、まずは人間の誤解や不和を扱っている。そのうえで、社会がその不和を隠蔽し放棄していることへの憤りを、主人公の衝動に重ねて描いている。
まず、不完全さや誤解が前提であるということ
割れたカップが象徴的に描かれ、不完全さが肯定され愛でられるものとして示唆される。
アレックスと「f」の関係は、「f」の片耳が聞こえにくいことから認識がずれ始め、破綻していく。
劇中に登場する聾唖の老人は、無声映画の不完全さや誤読可能性を笑う(その口の動きは映画のラストで繰り返される)。
ミレーユは歯並びが不自然で、そのことで仕事を失う。
アレックスと親友の間だけでなく、隣の部屋の夫婦、扉越しに聞こえるカップルの議論など、どこでも喧嘩が絶えない。
上記の例と交互するように、その不和を隠蔽されて、隔たりが生まれている様子に焦点が合う。それは、都市の交通インフラ、インターホン、写真、テレビ、人々のモラル、など複数の異なるレイヤーで描かれる。
アレックスと親友は、親友の持つモラルにより、結局殺し合いには至らず終わる。これは、アレックスが隔たりに気づく瞬間である。
ミレーユは恋人とまともに別れられず、インターホン越しに関係の終わりを伝えられる。その様子をアレックスは凝視する。
アレックスと隣人は壁に隔てられ、その壁にアレックスは反発する。
アレックスが全力で追いかける何者かは、気づけば電車に乗り、姿を消してしまう
アレックスは、この隔たりに敏感である。アレックスの全力ダッシュやもがき、眼差しは、隠されてしまった不和や不完全さを、もう一度掘り返すためのものとして理解できる。
一方で、アレックスとは異なる姿勢も戯画的に描かれる。ゲーム機に熱中するだけの若者たちの集団は、隔たりを受け入れ、誰も口論をしない。やがて裏側が剥き出しのゲーム機に向かい、無言でサービスを享受するその姿は、隔たりに無抵抗な状態を象徴している。
なぜこのように不和が隠蔽されて人々が隔たれるようになっってしまったのか... という問いが浮かぶ。思い返せばカラックスは最初から彼なりの答えを用意していたのかもしれないとも思う。冒頭、絵と詩が川に流され、都市から消え去ってしまった場面に。